2014年8月19日(火) 河北新報 朝刊くらし面掲載
退職を機に、青森県から息子さん夫婦が暮らす宮城県へ引っ越して来られた60代のご夫妻がいます。お住まいは、園児や児童が多く住む新興住宅地。近所の小学生と言葉を交わすうちに、子どもたちが遊びに来るようになりました。
季節によって折り紙で七夕飾りを作り、マジックの練習をします。その合間のお茶を、子どもたちは待ち切れずにいます。
お盆で運ばれて来るのは、ご夫妻が約20年かけて少しずつ集めてきたものです。夏には、吹きガラスのコップやピッチャー。涼しくなれば、登り窯で焼いた急須や湯飲みが並びます。コップや湯飲みといっても、実際はぐい飲みなど、子どもが持ちやすい小さな器です。
一つ一つ形や色、重さが異なる手仕事の器から、子どもたちは好みのものを選びます。子どもたちにとって、「普段使えないものを使える」またとない機会になっているのです。この日運ばれてきた中にあった小ぶりのワイングラスは、小学2年生の男の子が真っ先に「これ、ボクの!」と選びました。大人が見ても、いいなと思う丈夫で無駄のない形です。
ご夫妻は「講釈するわけじゃなく、好きな器で飲んでもらえれば、それで十分」と、自分たちがいいと思う日常の器を並べています。
特別の日に使う高価な器ではなくても、日々喜びを感じられること。流行とは関係なく、いいものと思える器があること。その感覚を、子どもたちは知るようになるかもしれません。
ここで言ういいものとは、安心して使える丈夫なものであり、親しみの湧く簡素な形であり、自然な肌合いといったものです。
子どもたちは、教えられたわけでもないのに、湯飲みでお茶を飲むときには、片手ではなく器に手を添えるようになりました。片付けるときも、大事に抱えて台所へ運びます。
これから20年後、30年後、生活習慣が変わったとしても、子どものころのお茶の記憶がふと浮かぶことがあるかもしれません。
心穏やかになる時間も、大事にしたいものも、言葉よりも暮らしを通して伝えることが、何より大切なのでは。子どもたちとのお茶から、教えられたことです。