出会ったのは人ではなく物が最初でした。ぽってりとした黒褐色の胴に、真鍮(ちゅう)の持ち手がついた土瓶。釉薬(ゆうやく)が掛かっていないふたの縁や底には土の手触りが残り、何とも心地よい形でした。手に取りたくなる、その味わいの背景に何があるのだろう。
訪ねたいと思ったとき、その人は「かやぶき屋根の補修で時間がない」と、ぶっきらぼうに答えました。
それでも東北の古陶にはおおらかで自由な生命があること、火に弱く赤黒い土の性質のこと、風土に根差し生活してきた誇るものが東北にはあるのだと、とつとつと語るのでした。
独学で焼き物を始め、自作のろくろを回して40余年。陶土を求めて宮城県内を移り住み、身近な土石や稲わらを手作業で材料にして、自ら築いた登り窯や蛇窯の炎に委ねています。
栗原市の山際にたたずむかやぶき民家の一角にある工房には、掃き清められた蹴りろくろと手回しろくろが並び、格子窓から冬の光が注ぎます。船時計の刻む音が響き、まきストーブの木がはぜ、黒ずんだ真鍮のやかんに湯が沸いています。
古い大堀相馬焼の山水土瓶で入れるのは、濃いめの緑茶。冬場は成形したものが凍って割れないように気を遣いながら、春先の窯だきに向けて、ろくろ仕事や成形に追われます。
この日は土瓶作り。少し乾いた土瓶の胴を、回し棒の先でたたいてへこませ、真鍮の管で茶こし用の穴を一つひとつ開けていきます。回し棒でたたく音が木魚のようで、ここでは音までもが美しい――。
名誉や権威、金銭に執心しないこの人にとって、抑え難い衝動が、美しいものを求める心です。それは病ともいえるほど。美術品や骨董(こっとう)、古道具はもとより、野辺の石塔や仏を目にする喜びに気付かせてくださったのも、この方です。
「基本はじかに見て、美の世界を感じ取る。体験を抜きにしては話にならない」
交通の便がよいとは言えないその人の元へ、登り窯で作陶する若手が益子から、丹波から訪ね、うわさは沖縄にまで届いています。
工房を後にして、冬の晴れ間を歩きました。雪解け水が注ぐ沢、ぬかるむ道、今も使われている長屋門が一つ、二つ、三つ。歩きながら、ふと思いがよぎったのです。もしかしたら、作陶の人はこの地に選ばれたのでは、と。陶土や心にかなう里を求め、この地に着いたのだと思い込んでいたけれど。